三日目A:再会 どんなゲームにも「最も脆弱な陣形」というべきものがある。いや、正確には「最も脆弱な陣形 相手に向けて止めを刺そうとするその瞬間。攻撃者の方は限りなく無防備になっている。 これは、人間が人間である限り仕方の無い、突破しようの無い弱点なのだそうだ。 そして――それは当然のことながら、ゲームの中だけにとどまらない。人間同士の「戦い」に 数百年前に起きたこの国で最も有名な奇襲戦もそうだと言えるし――それこそ戦史を紐解け 相手自身を縛ると言う、一種皮肉な結果を招くものなのかもしれない。 詰まる所、半年前のあの誤解と疑心暗鬼から始まった騒動で、力量・経験共に僕を遥かに 上回っていた"朱の娘"こと片山朱莉に僕が勝てたのは、この「九十九の勝利」に彼女が縛られたからに他ならないのだと思う。 焔の精霊を操る規格外。 どれだけ規格から外れていようと、彼女もまた人間ということなのだろうか。それはそれで、 正直……僕は彼女が嫌いである。 帰宅途中。朝から降り続いていた雨は激しさを増し――街は、いつもより静かだった。 そんな雨の中、僕は途中で買った安物の傘を刺して家路を急ぎ――つい近道して、ある公園 小さな公園だ。 ブランコ二つと、滑り台とベンチが一つずつだけ。 ごくごく小さな、ホームレスすら訪れない無人の公園。 其処に――奴はいた。 只でさえ日が短くなってきた薄暗い雨の日、公園の端のベンチに人がいるかなど普通ならば 気にしないはずだが――普通の大学生である僕に違和感を抱かせるに足る存在感がそいつにはあった。 其処にわだかまっていたのは、闇色の人型。 夜闇を凝縮したような黒。宵闇で編み上げたかのような漆黒。 否。如何なる言葉を尽くしたところで、その闇の黒さを言い表すことなど決して出来ないに違い 漆黒の人影は、僕がそれに気づいたことに気づいたらしく、顔と思しき部位を上げる。おそらく、目に相当する部位があれば僕を凝視していることだろう。 『へぇ、俺に気づくんだ。だけど、あんたはイイモノ持ってないね』 どことなく機械じみた無機質な声。おそらく、外見同様そいつ本来の声ではないのだろう。この漆黒の人影の中に人間が入っているのならば――だが。 「イイモノ、ねぇ……巷をお騒がせ中の通り魔かな?」 だとしても、敵意の無い口調と言葉の内容から見るに、僕は標的ではないようだが……と頭の裏で付け加える。 『ご名答……って、なぁんだ。“禍学の継承者”の人か。回答知ってて答えるのはインチキだ』 漆黒の人影――《ドッペルゲンガー》が発した聞き覚えの無い言葉に、耳を疑う。 文脈から言って僕を表してないとおかしいが……しかし、肝心の僕はそんな呼称で呼ばれる 覚えなどない。大体、科学だか化学だかの継承者って何なんだ。意味が分からない。 だが。意味が分からないながらも、心の内側を引っかかれるような妙な感覚があったのもまた、 確かなこと。欠落した記憶が軋みを上げているのだ。まるで、其処に本当は何かがあったのだ、 と精一杯主張するが如く。 『……ふぅん。そっか。まだなんだ。じゃあ今回は、あんたはダメか』 《ドッペルゲンガー》の方はといえば、こちらの困惑を無視して一人で勝手に納得している。 「何がダメだっていうんだ。いきなり失礼じゃない?」 『通り魔兼都市伝説に礼節を求めちゃいけないよ。そっか……じゃあしょうがないか。此処で一気 にカタをつけるつもりだったけど、もうちょっと段階を踏もう』 むく、と《ドッペルゲンガー》は立ち上がり、妙に人間っぽく伸びをした。 ふりしきる冷たい秋雨の中、傘をさす様子も無いが、濡れることを気にしている風でもない。 「自己完結してるところ悪いんけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ」 『そりゃ残念。今のあんたに教えたいことは何もないんだ』 僕の問いかけに、《ドッペルゲンガー》は意味深な拒否と嘲笑を返す。 自然、僕の口元も笑み に歪む。 「ここは……ころしてでもうばいとる、と言っておくべきなのかな?」 『ご冗談を。殺したら死人に口なし。後悔あとのカーニバルだよ? しかも雨天決行』 僕は一歩歩み寄り、《ドッペルゲンガー》は一歩遠ざかる。 奇妙な緊迫感が場を支配し―― 「其処にいるのは誰ですの?」 不意に僕の背後から響いた声により、無人の公園に構築されつつあった緊迫感は一瞬にして 崩壊した。さようなら戦場、こんにちは日常。 振り向けば、やや遠く。少女らしい背格好と似合わない紅い大人物の傘。揺れる無駄に長い 黒髪、濡れて毛先が細かな束となっている。見覚えのある嫌な気配。 『じゃあね。もう遭わないことを祈って』 感情のこもっていない声にしまった、と振り向けば。まるで最初から幻影でしかなかったかの ように《ドッペルゲンガー》は消え去っていた。 どうやら、闖入者に気を取られた一瞬が致命的だったらしい。 その傍迷惑な闖入者はと言うと……もう一度振り向いた僕の目の前でにこにこ笑っている。 いつの間に近寄られたやら。 「これはこれは、半年前の生命力だけは旺盛だったお邪魔虫さんじゃありませんの。お久しぶり に随分と心地良い敵意を向けて下さって光栄ですの」 出会いがしらに嫌悪感しか催せない長台詞でもって相手を圧倒する。 闖入者の正体は半年前と全く変わっていない朱の娘こと、片山朱莉だった。 長く、手入れの行き届いた綺麗な黒髪に、清楚な白のワンピース姿。身体の起伏の少なさも あって、男の趣味によっては庇護欲を思いっきりくすぐられることだろう。そして、浮かべている のは如何にも上品そうな笑顔。一見すると、どこのお嬢様か、という感じの外見であるが―― しかし、その実態は。 望んで自ら"普通"を放り捨て、望んで自ら外道に踏み込んだという過去を持ち、“魔女”や…… えーと……渡部(仮)こと紙飛行機の彼にしてみれば、唾棄すべきようなポリシーに則って生きて いる、そんな存在。 「悪いけど、僕はあんたのことが嫌いだからね」 そしておそらく。今は亡きあいつも、朱莉の在り方を嫌うことだろう。忌避するかもしれない。 ならばそれは、僕にとっても同じことだ。 「嫌われる覚えはありませんけれど、貴女がそういうのでしたらきっとそうなのでしょうね。それは 仕方のないことですの。私も誰かの好き嫌いに口出しする程傲慢ではありませんし」 奴はもっともらしく溜息をつき、肩をすくめる。 つくづく、一挙一動一投足が気に障る相手だ。 半年前。 まだ僕がこの地に引越してきたばかりの時――とあるへまから、僕はこの少女に追われる 羽目になった。 詰まる所、それは不幸な誤解であり、この少女が本当の本当に追うべきだった"敵"である所の 《ドッペルゲンガー》はその隙を突いて暗躍した挙句、消息不明となってしまった。 尤も、全てが終わった後、とあるお節介な隣人経由で聞いた話だから、その辺りは曖昧にしか知らないし――それに、知ろうとも思わない。 関わること自体が好ましくない、そんな相手もいるものだ。 僕にとって、それがこの規格外であったという、ただそれだけの話。 それ以上でもそれ以下でもない。 「それはそれとして――まあいいや。何でこんな所にいるわけ? 僕は今度は襲われるような 誤解を招いちゃいないと思うけど」 僕の至極当然な問いかけに、奴は気まずそうに答える。 「道を、忘れてしまいましたの」 「は?」 思わず、聞き返してしまった。 ――焔の精霊を操る規格外。 それが規格外たる所以は、決して焔のみにあらず。半年前、確かに奴は人間離れした記憶力 を僕らの前で披露した。それも――嫌と言うほどに。 「……ま、そういう反応になるのが当然ですの」 目の前の規格外は如何にも意気消沈した様子で続ける。 「私も信じられないのですけれど……ここから先の道が"分からない"んですの。どれ程思い出 そうとしても、出てこないんですの」 なるほど――規格外であることを一種誇っている印象のあるこの少女が、その規格外な才能を 発揮出来ないとすると。その現象は、こうした状態をもたらすのかもしれない 「でなければ、貴女のような通りすがりの人工無能に頼ろうだなんて夢にも思いませんの」 「さりげなく酷い評価だよねそれ」 よりにもよって人工無能とは……少なくとも、これから頼ろうという相手に言う言葉じゃ絶対に ない。やっぱこいつ嫌いだ 「失礼、人工不能の間違いでしたの」 「それ、男に言ったら再起不能だよ?」 「再起不能になってくれれば御の字ですの」 一撃必殺、言葉の刃。情けも容赦もあったものじゃない。 うん、やはり何というか……波長が合わない。それは向こうも多分同じ事なのだろうけれど。 「ともあれ、こうして人が迷子になってるんですから、とっとと案内して欲しいんですの。時間が あんまりないんですの」 「どこにだ」 そもそも「迷子」って歳かお前。絶対突っ込まないが。 「あら、決まっているでしょう?」 規格外はにこ、と微笑む。 「 “魔女”さんの家、ですの」 なるほど。ひょっとすると“魔女”の名前を誰も思い出せないのと同じ効力が彼女の家の場所に関しても働いているのかもしれない。だとすると、あの“魔女”は相当に傍迷惑なことをやらかしているものだ。僕の知ったことじゃあないけれど。 まあ、仕方ない。 少なくとも、今ここで感情に任せてこいつと事を構えれば……100%、僕が無残な敗北を喫する だけだ。それは、あいつが望んだ結末じゃないだろう。 ならばその結末は。僕の望むところでもない。 「……わかった、ついてきて」 僕は一際大きな溜息をつき、規格外少女の不遜な頼みごとを受け入れ、手を差し出す。 「手は繋げませんの。宗教上の理由で」 「……半年前、無神論者って言ってなかったっけ?」 どうにも不本意ながら……どうやら僕はまた厄介ごとに巻き込まれつつあるらしい。 |