三日目B:侵された日常 ――半年前のこと。 満身創痍の僕は鉄橋の上に追い詰められていた。終電はとうに終わり、辺りは静まり返って いる。 静かで、寒くて、廃れきった春の夜は――どこか、落ち着かないものを感じさせる。 目の前には、そんな空気の中で更に僕を落ち着かなくさせる相手がいる。 長く、手入れの行き届いた綺麗な黒髪に、清楚な白のワンピース姿。そして、如何にも上品 そうな笑顔。一見すると、どこのお嬢様か、という感じの外見であるが――少なくとも、普通の お嬢様ならその右手に物騒な拳銃を携えてはいないだろう。 風は、ない。夜気の冷たさは、この季節特有のものだ。そう、信じたい。 目の前の存在に寒気を感じているなどという不名誉は――誰しも、認めたくはないものだ。 背筋が、軋む。 無理もない。こんな化物から逃げ続けたとあればその程度当たり前だ。 かつ、かつ、と。少女の形をした化け物は僕の目の前――十数mまで近寄って、止まる。 「私は無神論者ですけれど……もし何か貴女の神様に言い残しておく事があるのなら、聞いて ――全身から余裕を滲ませ、少女は言い放つ。 「……気が、合うじゃないか。僕も無神論者でね……」 一方僕は、息も絶え絶えに、返す。ちなみに、無神論者だというのは本当だ。 ――三年前、死ぬべきだった僕が生き残ってあいつが死んだ。 神がいるなら逆の結果で然るべきだし、それすら是正してくれないような神など、仮に居たと しても信じる意味がない。 「そう……なら、大人しくここで消えて下さいですの」 少女の姿を借りた人外はにこりと笑い、引き金にかけた指に力を込め―― *************** 「お、あかりんだー、遅かったね」 ノックして間もなく、ひどく気の抜ける返事とともに“魔女”は扉を開けた 「その「あかりん」って呼び方はやめてほしいですの。思い出したくないことまで思い出しそうで そんな彼女に肩を竦めて答えるは、僕の傍らの朱莉。 「えー、可愛いじゃない、「あかりん」。うん、我ながら良いあだ名だと思うよ?」 「貴女の主観を押し付けられても困りますの」 へらへら笑う“魔女”と、困り顔の規格外。 何というか……珍妙な取り合わせである。色んな意味で。 大学からの帰り道にこの規格外と肩を並べて隣人を訪ねる。 半年前は思いもよらなかったような。そんな平和だけど、どうにも不自然に思える光景。 ともあれ、待てよ? 「"遅かった"? ……まさか、こいつを此処に呼んだのって」 「ん、あたしだけど?」 僕の問いかけに、“魔女”はあっさりと答えた。 さすがに、真横に当人がいる状態で「こいつ苦手だって前にも言ったじゃん」とは言えないが ……とりあえず、薄暗い視線を無頓着な隣人に向けておく。 とは言え、“魔女”にそういう「気遣い」を期待するのは難しい、というのが現実なわけで。 それに、彼女のこうした垣根を作らない態度が結果的に半年前の揉め事を穏便に解決する 糸口となったことを思えば、贅沢も言えない。 **************** 「結局の所、ああいう手合いっていうのは……そうね。例えるなら、恋みたいなもんなのよ」 “魔女”は、僕の「精霊使いみたいな連中をどう思う?」という質問に、昔こう答えた。 「恋愛っていうのはさ、世間じゃもてはやされてるじゃない。でも実際は結構ドロドロしたもんよ」 「……そんなことは言われなくても分かってるよ」 「あら、貴女は縁がなさそうに思ったけど」 大きなお世話だ。三年前、あいつを喪った時以来確かに縁はないけれど。 何せ、鏡を見ればいつでも其処に僕を罪悪感で苛む顔を拝めるわけで。 こんな状況でもなお色恋沙汰にうつつをぬかすことが出来る人間が居るとしたら、そいつは ほぼ間違いなく人格破綻者だろう。 「恋を長続きさせる秘訣って、要するに"どれだけ自分を騙せるか"なのよ。もっと端的に言うならどれだけ現実を見ないか、とも言い直せるわね。反対に恋を愛に変えたいなら、どれだけ相手を真っ直ぐに受け止めてあげられるかが重要になってくる」 随分と割り切った発言だった――世間の浮かれた連中に聞かせたら発狂するだろうか? いや、無視するだけか。人は真実だから耳を傾け、信じるんじゃない。耳を傾けたいから耳を 「大抵の場合、恋が愛に変わるところでこじれる。人は身勝手だからね。あたしも色々見てきた 一体何があったのだろう。そう聞きたくなるくらい、“魔女”の表情は苦々しそうだった。 さながら――止められなかった悲劇を嘆くかのように。 けれど、それを聞くのはルール違反だ。彼女が話そうとしているわけでも、彼女が僕の領域に 踏み込んできたわけでもないのだから。 「自分が生み出した虚像じゃなくて、相手の実像を見てみたいと願ってしまった瞬間、魔法は解け ちゃうんだよね。アバタもエクボって言うけれど、それは見たい物だけを見たいように見ている から、そう見えるだけ。ありのままに見ようとしたならば、それはやっぱりアバタ以外の何者でも ないんだよね。アバタ以外の何者にも見えない」 恋は盲目、愛は晴眼。誰かを愛しようと思うのなら、誰かをありのまま受け容れるしかない。 ――果たして僕は。あいつを、"愛せて"いたのだろうか? 「それをアバタとして受け容れられるならまだ良し。でもね。そうできなかった場合、往々にして 虚像の方に実像をあわせようとしちゃうのさ。アバタを無理矢理エクボにしようとしちゃう」 “魔女”は片手間でパソコンを弄りながら、寂しげに呟く。 「まあ、そんな無茶がそうそう通るわけもない……アバタはどう足掻いたってアバタでしかない。 で、無茶の挙句……大体、すっごく悲惨なことになるんだよね。少なくとも、あたしが見てきた 例はみんなそうだった」 ……何というか、反応に困る。ま、上手い返しなんか期待されてないか。黙っておこう。 「あーいう「精霊」みたいな力っていうのも私から見れば同じだよ。見たいように見ている内は、 見たいように見られる内はとても素晴らしいものに見えるけれど、正面切って相対するとなると 重たいし引くかな、って感じの「厄介なもの」。それ以上でもそれ以下でもないよ」 **************** つまり。“魔女”の取扱いはひどく平等なのだ――ある種、残酷とも思える程に。 忌避しない代わりに、特別扱いもしない。一貫し、徹底しているという点では好ましいが、ある 一つの方針を徹底して実行するならば、それだけに鼻につく対応となってしまう場合も必然的に 生じることになる。 その一端がこうした無頓着な対応に出ているわけだけれど……そこの規格外も好ましくない あだ名で呼ばれたりしているようだし、こっちは大人しく引いておこう。どの道、言って聞く相手 でもないのだし。 「で、だ。うん、そっちの君も来てくれたのはありがたいかな。とりあえず、入った入ったー」 そう言って、彼女は踵を返す。 客人への礼儀も何もあったもんじゃない対応だった。 「どーしますの?」 「……」 朱莉は首を傾げ、僕は肩を竦め。そんな儀礼的なやり取りを交わした後、僕らは“魔女”の棲家 に足を踏み入れた。 ……第一印象は、乱雑。所狭しと積み上げられた専門書と思しき本に、パソコンの部品類。 更に、その合間に散らばるわけの分からない異国の置物や調度品。 ジャンク屋の倉庫と言われても、多分納得してしまうかもしれない。 「適当に場所空けて座っといて」 “魔女”は部屋の奥、半ば開けっ放しの襖から座布団を二枚取り出し僕と朱莉の方に放る。 前回より酷くなってるのは気のせいじゃないと思う。むしろ片せよと心から叫びたい。 傍らの人外も、流石に絶句しているようだ。 ともあれ。僕らは各々場所を空けて座り。 それが終わるのを見届け――彼女は話し始めた。 「さて、今日来てもらったのは他でもない。二人とも多分もう知ってると思うけど……この街に、 半年前と同じ事態が起きようとしてる。ついさっきも、元橋地区で一人やられたらしい。此処の すぐ近くだね。……《ドッペルゲンガー》の再来だよ」 ――部屋の空気が変わったのは、気のせいではない。 僕自身、知っていたとはいえその単語を聞いて身構えてしまっていたのだから。 半年前。 僕と、隣の人外との何とも喜劇的で滑稽な争いの裏で進んでいた事件。 そう、半年前この街でまことしやかに囁かれていた都市伝説。《ドッペルゲンガー》 夜、突然自分とそっくりな背格好の人影に襲われ、眠り続けることになるという、ありふれた その《ドッペルゲンガー》氏と間違われたせいで、僕は貴重な春休みの大半を隣の人外との 追いかけっこに費やす羽目になったわけで――そして、僕がこの少女を辛うじて退けてその どうしようもない誤解を知った時には、そのドッペルゲンガー氏はすっかりなりを潜め、真相は というか、その元凶との話を邪魔したのは他ならぬ隣の朱莉なわけだが、それを責めても不毛 でしかない。 しかし、そうなると一人餌食にした後、その足で《ドッペルゲンガー》は傘も差さずにあの公園 まで来ていたわけか。実に傍迷惑な仕事熱心さだ。
朱莉は首を振り、苦笑する。 「……何かと思えば、馬鹿馬鹿しい。そんなことを話しに、わざわざ人を呼びつけたんですの? その一件はもう貴女が関わるべき範疇ではありませんの。後始末は私達だけで付けますの。 それが半年前に“間違えた”私が通すべき筋ですの」 「人知れず戦い続けて、己が身を削って自衛する。美談だねえ。凄い美談だよ。感動しちゃう。 でもね、あかりん」 対する“魔女”は、至って冷静に――皮肉めいたしぐさで、肩をすくめた。 「君達だけで勝てる相手なら、それこそ半年前に全部の事態は終わってるんじゃないかな?」 “魔女”が示したいかんともしがたい現実に、う、と朱莉が一歩引く。 「半年前までの事態なら、確かに君は上手く片付けてきたと思う。でもね、君たちの力にだって 限界がある。もう分かってるだろうけどね。そう意固地にならないで、少しはあたし達のことを 頼ってくれても良いと思うよ? 君の横の不満顔の娘も、一応は君を退けた力量の持ち主なん だしね」 「それは、共闘の申し出のつもりですの?」 「一応は、ね」 “魔女”はにやり、と笑い。朱莉の顔はこわばったまま。 そのまま膠着状態が続き――暫しの沈黙の後、朱莉は表情を緩め、溜息をつく。 「話になりませんの。アレが勝てる相手かは問題ではありませんの。自らの汚名を雪ぐ為に 他人の助力を請うなど、死んでも御免被りますの」 “魔女”はその言葉に、形の良い眉をひそめた。 「自分の力の使い方が分からないような娘だとは思ってなかったんだけどな?」 「今の理由で足りないなら、もう一つ。貴女のやり方は少々好みませんの」 そう言って、朱莉はちらりと傍らに座る僕を見た。 「わざわざこの私を負かした相手を横に座らせて、プレッシャーをかけるようなやり口とかも」 ……それはどう考えても誤解だと思う。実際、あの時勝てたのは単なる偶然だし。 多分、言って聞く相手じゃないからそんな不毛なことは言わないけれど。 そんな僕の感想を察することもなく、朱莉は立ち上がり 「話は終わりですの。帰らせて頂きますの」 踵を返す。その背に、“魔女”は呟いた。 「でもね、あかりん。いずれ君はあたし達を頼らざるを得なくなる……今回の件は、その時には 不問にしてあげるよ」 その声に、扉に手をかけ――背を向けたまま、朱莉は心底嫌そうに応じた。 「その、手札を伏せたまま此方にプレッシャーを与えるやり口も大嫌いですの」 “魔女”はそのまま彼女を見送り――外廊下に響く朱莉の足音が聞こえなくなると、ふ、と溜息 「やっぱり僕は、奴は嫌いだよ」 「いんや、あの娘の言う通りだわ」 顔を天井を向けたまま、“魔女”は頭をかく。 「時期、尚早だったのと、何よりフェアじゃなかった」 「……へえ」 なるほど、あの人外の指摘は実は的を射ていたと。僕に自覚がなかっただけで。 「実際、あたしのやり方には問題があった。焦ったのかもね」 でも――と彼女は続ける。 「これで、大体の目星は付いたかな?」 くす、と笑うその顔は――さながら、状況を心底から楽しんでいるようにも見えた。 「ワケがわからないね。僕がここにいた意味って、君たちの交渉だか何だかを破綻させること 「いやいや」 “魔女”は笑って首を振る。 「あたしはどう足掻いても一般人だからね。いざとなったら君の出番だよ?」 一般人が“魔女”なんて呼ばれるものか。白々しいことこの上ない。 「君の力は多分、あの娘達とは違うものだからね。万一の時の切り札になりうる」 「これは力じゃないよ。鎖だ」 三年前からずっと、僕を縛り続ける鎖。あいつと僕を結ぶ唯一の絆。絆に縛られ、鎖に縋る。 在っても鬱陶しいだけだけれど、それが無ければとうに死んでいる、そんな物でしかない。 「鎖は振り回せば武器になる、手枷は相手を殴る鈍器になる。要は考えようだよ。そこに在る物自体は変わらないとしても、意味付け次第でその在り方は幾らでも変わるんだからさ」 “魔女”はへらへらと笑って言う。 「君に三年前何があったにしても、そんなことは今は関係ない。人を殺したナイフでも、林檎を 剥くのには役に立つ、その程度のことさ」 物凄く嫌なイメージだった。むしろ、食べたくないぞそんな林檎。 血とか残ってたらどうするんだ。まあ、洗った洗わないの問題でもないけれど。 しかし……三年前、か。 「……そうそう。言い忘れてたけど、さっき噂の《ドッペルゲンガー》と思しき相手に遭ったよ」 「ちょっと詳しく話を聞かせてもらおうか」 帰り際の軽い報告のつもりで告げてみたら、コンマ一秒で反響が返ってきた。 すかさず肩をしっかり掴まれているし、どうやら今夜は帰れないかもしれない。 カオスな部屋の中心で、僕は溜息をついた。 ――あの規格外が帰路の途中、事故に遭って病院に運ばれたと隣人から聞いたのは。 ようやく“魔女”の質問攻めから解放されてから更に一時間後……僕が自室で寝る準備をして いた時のことだった。 |