四日目B:病院・夜

 

 足りないということと欠けているということとの違いは何処にあるのだろう。

 ――僕の十数年の人生経験から定義してみるに、それは自力で埋められるか否か、の一点
に尽きるのだと思う。欠落と不足、「埋めようがなかった」と「埋められたのに埋めなかった」

どちらに救いがあるのかは分からないけれど。

 

 欠落も不足もない完璧な人間なんてのはそうそう居ないわけで。

 ご他聞に漏れず、僕も彼らも彼女らも何処かしら欠けていて、或いは足りなかったのだ。

 

 まあ、僕と僕以外の決定的な違いを挙げるとすれば。

 僕はもう何も埋めることが出来ない、欠落しかない死人なのだということぐらいだろう。

 

白川氏の長く不毛で鬱陶しいだけの説教から解放された後、“魔女”の部屋に僕は直行した。

「んぁ? 情報操作? ……そりゃ最低限はね」

 僕を出迎えた“魔女”は首をかしげた後、あっさりと頷いた。

「あの規格外率いる一団にも教えなかったの?」

「あぁ、あの子らに聞いてきたんだ。色々事情があるのよ」

僕の問いかけに、“魔女”はなるほど、と欠伸をひとつ。

「何せ、あかりん自身“廃都事件”で現在同居中の従妹さんがご両親を亡くされてるし、緑沢さんに

至っては“廃都”一帯の地脈とかを一手に管理してた澪瀬さんちの分家の人間だし。そんな連中

に君がアレの元凶だって馬鹿正直に教えてみなよ。その場で全面戦争開幕だよ?」

――冷静に指摘され、う、と答えに詰まる。

「……確かに、それはそうだけど」

「それに、そしたら隠してたあたしとか、それを黙認してるあたしの上にも迷惑が行くしね。色々と

難しいバランスとゆーものがあるのです」

 なるほど、難しいものだ――って、待てよ

「……そういえば。白川って子に僕が“廃都事件”と関わってるってバレちゃったんだけど。あの

鬱陶しいテレパス」

「うげ、そういえば彼って“白”持ちか……そればっかりはどーしようもない」

後で適当に言い含めに行くさ、とぽりぽりと頭をかく“魔女”。まあ、心を勝手に覗かれてしまった以上、こっちとしてはどうにもならないわけで。

「あと、緑沢さんの話だと僕の経歴全部が弄られていたらしいけど……それで最低限か?」

「おや、あたしは名前とか最低限の隠蔽しかしてないよ? 下手に隠して万が一バレると厄介だし、君の外見の方はそこまで致命的な経歴を辿っちゃいないしね。中身と違って」

“魔女”の何気ない言葉が僕の心を抉る。

その通りだ。

あいつは僕や“魔女”、朱莉の率いる連中と違って全くの真人間――こんなややこしい世界に

関わり合いにならずに一生を過ごすことができたはずなのだ。

僕さえ、巻き込まなければ。

「……また、悔やんでるね?」

 気付けば、“魔女”が半目で僕を睨んでいた。

「その後悔は、君が狂わせた全ての運命に対する冒涜だよ? その外見の本来の持ち主も、

“廃都事件”の犠牲者も、誰も彼もあんたに後悔してもらう為にお亡くなりになったわけじゃない」

「……分かってる」

 僕の弱々しい返答に“魔女”はやれやれ、と肩をすくめ、話を戻す。

「分かればよろしい。えーと、隠蔽関係はそいつに罪を着せるとして……ちょっと調べる必要がある

かな。穏やかじゃない」

「出来るだけ、速やかに頼む」

 ――彼らが真実に気付かない内に。彼ら全員を相手にして生き残る自信がないわけじゃないが、

幾ら何でも勝つのは無理だ。無駄な上に勝ち目のない争いなど、しないに限る。

「あー、そだ。その代わりと言っちゃなんだけど、ちょっと頼みごとがあるんだった」

「――え?」

嫌な予感しかしなかった。

そして。その予感は的中することになる。

 

* * *

 

――数時間後。昼間と同じ病院の4階廊下のベンチにて、僕は溜息をついていた。

「夜警は百歩譲って仕方ないとはいえ……しかしだ。もう少しマシなものはなかったのかなあ?」

 虚しい、空っぽな呟きが虚空に消えた。

 傍から見れば、僕は夜勤をサボっているダメナースに見えていることだろう。この服を着ると、

「看護婦」は駄目で「ナース」は構わないというこの国の言語感覚に、改めて違和感を感じる。

もちろん、それはどう考えても現実逃避だけれど。

 よくナース服は男の憧れだ、などという話を聞くけれど、僕にそういった趣味があるならともかく、

僕としては服装に対して大したこだわりもないわけで。正直、こんな服を着せられても気恥ずかしい

だけなのだ。

 何でこんな職業的使命感とかが著しく欠けたダメダメナースに僕がなっているのかと言えば、これ

また僕の厄介でありがたい非常識な隣人様がこの出自不明な謎服と、消灯時間後も病院に留まる

許可――勿論、非公式な代物だろう――を何処からか調達してきて、有無を言わさぬ笑顔と共に

僕に押し付けてくれやがったわけで。

 ちなみに、当然朱莉との乱闘もきっちりバレた挙句お説教されました。本日二回目。

「……いくら死人でもね。いちおう羞恥心は残ってるんだけどなあ……」

 斯くして、一人消灯後の病院の廊下でうずくまり、差し入れにもらったゼリーのパックを一人寂しく

啜る失格ナースの出来上がり。

 別段、食料を必要とする身体じゃないから、この辺りは完全に気分の問題。

10秒チャージ、効果なし。

 

 消灯時間を過ぎ、非常灯の淡い明かり以外は暗闇に塗り潰されてしまった病院の廊下はひどく

空虚で――寂しい。

 普段の世界と全く異なり、暗緑色に彩色された世界に嫌でも留まらなければならない、という状況

もまた、僕の気鬱を促進していた。

 人は精神状態に変調を来すと見ている世界も変わってくるという。

とすれば、見ている世界そのものが劇的に変化した場合、その変化は当然精神状態にも影響を

与えるわけで。良くも悪くも、人間は外と無関係じゃいられない、ということなんだろう。多分。

 

 そんな益体もない思索に耽ってはや主観時間では数時間。まだ夜が明ける気配はない。

当たり前か。まだ客観的には一時間も経っていない。

 腕時計の秒針の進みがやけに遅い気がする。嗚呼、時間は腐って売るほどあるっていうのに、

これ以上余らせてどうするというのだろう。

 

 どうせ、無為に浪費する以外の選択肢など、僕には遺されていないというのに。

 

 と。そんな結論に至った辺りで不意に――いや、ある意味予想通りと言うべきか――消灯時間も

過ぎ、静寂に包まれた院内に、およそ相応しくない大音響が響き渡る。おそらくは、硝子が割れた

音だろう。

 方角は、やはり403号室。あの人外の病室からだ。

「嗚呼、やっぱり来たのか……」

 しかも、随分とド派手な登場だ。人目を気にしないのは命を縮める原因だと思うけど、死人に

そんなことを説教されても、誰も聞かないだろう。

 

 廊下を駆け抜ける僕の耳に、“魔女”の不吉な予言が蘇る。

 

 ――あたしの調査が正しければ、もうあかりんの周りには"表向きに分かってる"異能者は、

あかりんと白川君の二人しか居ない。緑沢さんは人脈はあるけれど、精霊使いじゃあないからね。

他は軒並みドッペルさんにやられたか、個人的な事情で目立った動きが取れないかのどっちか。

正直、あたしも彼女達も今回は完全に後手に回ってるんだよ。

 さて。だとすれば……自由に動ける白川君か、入院中のあかりんか。どっちを狙ってくるかは、

明白だよね?――

 

 なるほど。非常に合理的な結論だ。それだけに反吐が出る。

 理屈は嫌いだ。昔は四六時中手放さないほどに大好きだったけど。

 無力だからだ――どれだけ数限りなく正しい理屈を並べたところで、誰も救えやしない。下手を

すれば、的確な嘘一つだけで、人は至極簡単に救われるのに。

 

 403号室の扉を開ける。そこで展開されていたのは、昼間とはまた違った意味で目を疑う――

奇妙で、奇怪な光景。

 片や、心底悔しげな表情で部屋の隅に追い詰められた片山朱莉。

 左肩を押さえている所を見ると昼間の乱闘での傷が祟ったのだろうか。それは、ちょっと悪いこと

をしたかもしれない。謝る気は毛頭ないけど。

 片や、部屋のほぼ真ん中。完全に勝利を確信したといった風な表情で、追い詰められた獲物を

楽しげに睥睨する片山朱莉。

 窓が割れ、夜風の吹き込む病室では。全く見分けのつかない二人の片山朱莉が対峙していた。

 扉が開いたせいか、薄紅色のカーテンが強まった風にあおられ、激しくはためく。

 その音で、両者はほぼ同時に闖入者に気づいて振り向き――その表情を、それぞれ全く異なる

ものへと変える。

 片や、追い詰められた朱莉は物凄く嫌そうな、苦々しげな表情になり。

 片や、追い詰めていた側の朱莉の顔に浮かんだのは、ただただ困惑のみ。

 

 それだけで、どちらが本物かを判断するには十分だった。

 

 入り口から部屋の中央部。距離を詰めるには一呼吸で足りる。右手を握り締め、軽く息を吸う。

未だ、二人とも僕の意図は掴めていないらしく、動かない。

 僕は一気に間合いを詰め――その勢いのまま、更なる困惑の表情を浮かべた朱莉の顔面を、

躊躇なく思い切り殴り飛ばした。小柄な、やせた身体が一瞬浮き、部屋の奥、備え付けのベッドに

叩きつけられる。

 

 右腕に嫌な痛みが走ったが、気にしない。どうせすぐに消える。

「昼間と言い……その躊躇いのなさ、少し不穏なものを感じないでもねーですの。しかも乙女の顔

に、よりにもよってグーなんて」

 僕の脇。部屋の隅にうずくまった朱莉が、心底嫌そうな顔を継続したままぽそ、と呟いた。

「生憎、僕は君が嫌いだからね。あと、お前が乙女を僭称するな。反吐が出る」

 僕はそれを見ることなく返す。むしろ、殴った時に爽快感すら感じたくらいだ。

 僕の視線の先。ベッドに叩きつけられた朱莉が、よろよろと立ち上がる。殴られた左頬をいかにも

痛そうに手で庇っていることからみると、痛覚がないってわけじゃなさそうだ。

 その指の隙間から垣間見える目に浮かぶのは。驚愕と、明らかな憎悪。最早、先ほどのぬるい

困惑など欠片も残っていない。

 上等。それでこそ貸しの取立て甲斐があるっていうものだ。

 

 そして二人目の朱莉が体勢を立て直し、僕と対峙した瞬間。その姿が、溶け崩れるように変わり

始めた。

 背後でうずくまっている朱莉が息をのむ気配がする

 まあ、自分の姿をしたモノが闇に侵される様に黒く変質していくのを見れば……驚かない方が

不思議か。

 

 暫くして現臨したのは、夜闇を凝縮したような黒。宵闇で編み上げたかのような漆黒。

如何なる言葉を尽くしたところで、その闇の黒さを言い表すことなど決して出来ないに違いない。

 斯くして、かの「人の姿を映す」と称された都市伝説は、その空虚な実体を晒していた。

 この姿を見るのは、一日ぶりか。確か、あの雨の公園でもこんな感じだった気がする。

『……へぇ、やっぱり効かないんだ。外見と中身が食い違ってるせいかな?』

 機械のように無機質な声が病室に響く。声色は分からないが、何故か状況を楽しんでいるように

思えたのは、恐らく僕の気のせいだろう。どうも、僕の周りには状況を楽しむ輩が多い。さておき。

「なるほど。のっぺらぼうなわけだ」

 そいつが対峙した相手の姿を映し出す鏡だというのなら、何も映らないのは当然。

 

 何故なら僕は。

 既に死んでいるのだから。

 

 そいつが映すべき実体は既に亡く、此処に在るのは虚像のみ。

 今此処に映し出されている僕の姿は「僕自身」ではなく、僕という受刑者が死という救済を永遠に

受けることが無いよう、現世に繋ぎ止める残酷な縛鎖。僕が最も失いたくなかった喪失を僕に見せ

つけ続ける不滅の檻。

 

 ならば、何も映しようがないのは当たり前の話。

 なればこそ、僕はその問いに答えることなく、漆黒の塊に拳を向けるのみ。

 

「半年前の貸し、いい加減に返してもらうよ。"ドッペルゲンガー"さん」

 

 

 

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