五日目B: 忘却

 

 行動は、その個人の人格の判断により実行に移される

 その人格は、その個人の経験の積み重ね、即ち記憶を礎として構成されている。

 では、その記憶が偽りならば。

 偽りの記憶を礎として構成された人格もまた偽りであり。

 その偽りの人格により実行に移された行動は、無価値なものでしかないのだろうか。

 まあ、そもそもそれが真か偽かなどという瑣末な事項を気にする人間など大していないのだから

関係ないといえば関係ないのだが。

 

 

 北向きに変わりつつある秋風が骨身に染みる今日この頃。

 考えてみれば僕も一応学生しているわけで、学生している以上授業に出ておいて損はない。

 どこから学費が出ているにしても、折角受けられる授業をサボるというのは性根の奥底に刻まれた小市民根性が「それを捨てるなんてとんでもない!」と叫ぶのである。

 

 ……まあ、あの規格外の見張りをしたり黒い塊と乱闘したりで徹夜だったせいで、異様に眠いのだけれど。

 

 

 斯くて教室。授業の教室に遅刻気味で入ると、既に授業は始まっていた。

 そして――誰だっけ。今日は秋山()とでもしておこう――は指定席にいた。左後ろ、隅の窓際。携帯の電波が一番入る場所。

 いつも通りのスーツ姿に、結構整った顔立ち、そして、地毛の茶髪。一見すれば、夜の商売の人と間違えてしまうかもしれないような風貌。

 例によって、周囲に座っている者は居ない。

元々大して人気のある授業でもないのもさることながら、やはり秋山()の風貌は整ってはいるが人を遠ざける、そんな効果を持っているのかもしれない。

 僕はいつも通り、そんな彼の隣に腰を下ろす。

まあ、むしろこのぐらい人払いされてた方がこっちも落ち着くというわけで。

 秋山()は気付かない――ただ一心に、何かを繰り返している。

 

 手元を覗いてみると、彼はやはり一心に紙飛行機を折っていた。

 もう既に6機が完成し、秋山()の左側に置かれている。毎度毎度、よく飽きないものだ

 

 と、そこで。

 手元にさした影で秋山()が僕に気付く。

「いつもより遅いね。寝坊かい? 色気づいて香水を付けるのはいいが、血の匂いに似た物を

つけてくるのは感心しない」

 秋山()は目線をこちらに向けずに、気にしている事をすぱっと突っ込んできた。

 全く、病院の喫茶室でぼーっとしてなければ念入りにシャワーを浴びてくる時間位はあったん

だけど。まあ、自分の血だけなんだからまだマシと考えておくべきか。

これで返り血が混ざっていたら、嫌過ぎるハイブリッドブラッドな感じになりかねないわけで。

 秋山()の手はその間も止まらず紙飛行機を折っている。

「……おはよ」

 結局、返事もいつも通り。いと変わりなし。

 

 しかし、今日は本当に日が悪い。

 まさか、こんな最悪の体調で大して興味もない歴史系の授業を受けなきゃならないとは。

 気分は憂鬱群青色、脳味噌は今にも押し寄せんとする上半身裸で水泳帽にゴーグル付けた

変態スイマーの大群で埋め尽くされている。全員図ったようにバタフライなのは何故。

 あくびをかみ殺しつつノートを取ろうと試みてみるものの、暗号文以下のナニモノかが記述されていくのみ。

 手持ち無沙汰になったので秋山(仮)の脇に積まれた紙飛行機に加工される運命の紙片に手を出してみる。

 細かな字で何事か宗教的なことが書かれていた。興味があるわけでもないので益々眠くなった。

悟りとかどうでもいいから。

 まあ、配布物で大体の筋は分かるし、一応出席しているだけ欠席して単位だけ引っこ抜こうとか思ってる連中よりは遥かにマシな気がしないでもないけれど。

 それって下を見すぎじゃない? と言われればサーイエッサーと答えるしかないわけで。

 

 ――結論から言えば。ものの数分で撃墜されてました。

 不死身のバケモノと言っても眠気には敵わないのです。ぐぅ

 

「……いびきかいてないだけいいと思うけど、仮にも女の子にそこまで堂々と隣で寝てられると

何か調子狂うんだけどな?」

 隣から響いた声に目を覚ませば、困り顔で苦笑している秋山()の顔が見えた。横向きで。

 がば、と起き上がって見回せば、既に授業終了後の微妙に人がいたりいなかったりする風景。

 はた、とノートを見下ろせば何が何やら分からない幾何学模様と、人として認めちゃいけない

染み。

 これで頬にノート内容と袖のしわがプリントされてたらパーフェクトな居眠り学生の出来上がりだ。

額に肉を忘れずに

「……やっちゃった……」

 一応、これでも無遅刻無欠席無睡眠を密かにとりえにしていた似非真面目学生の僕の矜持が、

非日常に蹂躙し尽くされた一瞬だった。

「別にそんなこの世の終わりみたいな顔しなくても、どうせ今回も八割方は雑談だったし。この授業

って事前に試験課題の発表あるし」

「そういう問題じゃないんだ……なんか自分に負けたみたいで嫌なんだよ……」

 秋山()の的外れな慰めをとりあえず一蹴しておく。

 単位など本質的な問題ではないのです。自分に課した諸々を破ってしまった事が問題なのです。

嗚呼、悲しいかな似非真面目人間の性。いや、体は割と人外風味だけれども。

「……まあ、少しは眠ってすっきりした顔になったんじゃないか? 来た時は何かひどい顔だった」

「ひどい顔、ね……」

 徹夜乱闘明けでイイ顔が出来る人間が居るとしたらそれはそれで十分人外だとは思うが。

「アレは何か悩んでいた顔だね。そして、多少眠ってもまだ、悩みは抜けていないと見た」

 秋山()の呟きにぎく、と僕は硬直し、秋山()はやっぱりそうか、と笑った。

 思えばこの男。いつでもどこでも紙飛行機ばかり折っているのだが、その実しっかりと他人のことを見ている――むしろ、観察している奴なのだ。これだから油断ならない。

 どの道、露骨に反応してしまった以上今更取り繕っても無駄だろう。マトモに頭が働いていれば

まだしも今は寝起き。嘘をつこうにもしどろもどろになって笑われるのがオチだ。

「……まあね。厄介なトラブルに巻き込まれて困ってるんだ」

「トラブルって事は、対人関係か。当事者二人の双方と知り合いで、どちらに肩入れするべきか

悩んでいるとか? 或いは、当事者の片方と知り合いで勝手な逆恨みをぶつけられたか」

「あぁ、そんなとこだよ」

 実際はもっと複雑な事態なんだけど、適当に流しておく。

 何せこの秋山()、非科学的な代物にあんまり興味のない筋金入りの一般人である。精霊だの

ドッペルゲンガーだのを説明した所で、頭がおかしくなったと思われるのが関の山だろう。

 僕の気のない返事からその辺りの事情を察したか、或いは単に気を使ったか、秋山()はつれないねえ、と苦笑を漏らす。

「そっちの事情もあるだろうから詮索はよしとくか。一般論に留まるけど……悩んでるってことは、

もう判断材料は手元に揃ってるんだと思うよ」

「それはないね」

 むしろ、確定情報が手元にないからこうしてうんうん唸ってるんだし。

 だが、彼は僕の即答にもめげずに続ける。

「それはね、手元にないと思いこんでいるだけなんだよ。見えていても……いや、見えているから

こそ、忘れていることもある。目を曇らせる先入観とかを一回捨てて、真っ白な心で状況全体を

見渡してみるのも一つの手だ」

「それに思い至れば、回答は出ると?」

「悩んでるってことは、そういうことさ」

そんなものなんだろうか。あまりピンとはこないけれど。

 だが、確かに引っかかっている物があるのもまた事実。この引っ掛かりの正体が解ければいい、

ということなんだろうか。

「……まあ、考えてみるよ。アドバイスありがとう。参考になったら何か奢るよ」

僕の提案に、秋山()はとんでもない、と首を振る。

「どういたしまして。悩んでいたら助け合うのが友達だろう?」

「それはまた、ありがたい友人観だ。悩みそうもない君の友達はさぞかし楽だろうね」

「ひどいな。こう見えても、俺はナイーブなんだよ?」

「単純野郎ってことか。確かによくわかるよ」

 ご名答、と彼は笑い。ご冗談を、と僕は笑う。

 取るに足らない馬鹿話ではあるが、やってみると案外気が晴れるものだ。少なくとも、ここ数日の

ように“魔女”と無駄に真面目に話したりだとか、朱莉と波長の合わない会話を繰り広げるよりは

よほど精神衛生上良い。

 

教室を出ようと扉を開けたその時、後頭部にこつん、と何かが当たる感触。

振り向いて見ると、さっきの授業中に製造されたと思しき紙飛行機が僕の足元に一つ。

「手土産だ。お守り代わりに持っていくといい」

丁度四角い教室の隅と隅、対角線の向こう側から秋山()の声が響く。結構大きめの教室だが

……あそこから僕の頭を狙って紙飛行機を飛ばしたのだとすると、相当の腕前だ。勿論、飛行機自体の性能もあるのだろうけど。

 僕は答える代わりに紙飛行機を拾い、秋山()に手を振り教室を後にした。

 

 

 

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